時 間:
8:00~ 禊
10:30~ 神事
11:00~ 弓引き
11:30~ もちほり
場 所:
大馬神社(井戸町大馬)
内 容:
平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が建立したといわれる大馬神社では、祭礼の日に一年の平安を祈願して「弓引き神事」が行われます。水垢離によって禊をした後、弓引き役は烏帽子・直垂姿に、矢取り役は白装束に着替えます。当屋の組から選ばれた2人の弓引きが6回ずつ合計12本の矢を放ちます。的までの距離は約12m、的の大きさは約90cm。
☆熊野国総鎮守・大馬神社
桓武朝の御世に、征夷大将軍・坂上田村麻呂が『鬼ヶ城』で討ち取った鬼の首魁の首を地中に埋めてその上に社 を県立し、当時の熊野国総鎮守としたと言われています。その後、江戸時代に智興和尚という僧がこの話を伝え聞いて参詣しようとしたところ、『花の窟』の辻 あたりで大きな葦毛の馬に乗った田村麻呂の御霊が現れて社まで案内しました。田村麻呂が大きな馬に乗っていたことから大馬神社と呼ばれるようになったと言 われています。また、田村麻呂の愛馬が一緒に埋められたことから”大馬”とも、”大魔を封じた社”が転じて”大馬”となったとも言われています。
☆大馬の清滝
落差約20mで、市街地を流れる井戸川の源流です。非常に清冽な清水が流れ、神々しい姿が特徴的です。坂上田村麻呂が鬼を討ってこの付近に封じたのも、この滝の霊力によって鎮守させるためとも言われました。
内 容:
平安初期の征夷大将軍・坂上田村麻呂が建立したといわれる大馬神社では、祭礼の日に一年の平安を祈願して「弓引き神事」が行われます。水垢離によって禊をした後、弓引き役は烏帽子・直垂姿に、矢取り役は白装束に着替えます。当屋の組から選ばれた2人の弓引きが6回ずつ合計12本の矢を放ちます。的までの距離 は約12m、的の大きさは約90cm。
時 間:
10:00~ 号砲 祈祷開始
場 所:
一乗寺(井戸町岡地)
内 容:
大小さまざまな”だるま”に一年の開運を祈る行事です。時期的に合格祈願の受験生や身内の方々も多く集います。一乗寺は、福徳や財宝を授けると言われる七福神の一人・毘沙門天を祀っています。
☆へちま封じ
一乗寺では、9月下旬の十五夜の日に「へちま封じ」が行われます。ヘチマやキュウリに名前や病名などを記入し、祈祷してもらいます。祈祷をうけたヘチマやキュウリは、各家庭に持ち帰って庭や鉢などに生けると病気が治るとされています。
時 間:
10:00~ 神事 随時「奉飯」の受付
12:00頃 弓引き
場 所:
産田神社(有馬町)
内 容:
産田神社は、伊弉冉尊(イザナミノミコト)が火神・軻遇突智命(カグツチノミコト)をこの地で産んだことに由来して”産田”の名がついたと言われています。伊弉冉尊(イザナミノミコト)の神々の母としての神話から、太古から安産と子育てを祈願した祭礼が執り行われています。
☆はじまりの地・産田
『花の窟』が伊弉冉尊(イザナミノミコト)の御陵であるのに対して、産田神社は火神を産んだがために神退去った場所として一対的な意味合いがあり、神々が生活した故郷とも言える場所です。伊弉冉尊(イザナミノミコト)が神々の母であることから、古くから安産守護や子を授かる神社として尊崇されてきました。弥生時代からの古い神社で、日本に稲作が伝えられた頃から存在していたと考えており、弥生式土器の出土もあります。
☆「神籬(ひもろぎ)」
太古、社殿のなかった時代に神の宿る御神体とされた場所です。丸石を敷き詰めた最も神聖な場所として、箒を使うことが厳禁とされ、手で落ち葉を拾い取るように代々言い伝えられていました。産田神社には2つ存在し、それぞれ伊弉冉尊(イザナミノミ コト)と軻遇突智命(カグツチノミコト)を祀ったものと言われています。物を供える平らな石があり、神を祀るときには竹をさして神の依り代をもうけて神事を行ったとされます。太古の信仰を伝える非常に貴重なもので、日本に2箇所のみ残っているとか、古代神社祭式台として二千年前崇神天皇時代の祭物とも伝わっています。
☆「奉飯の儀」
子どもが丈夫に成長するのを願って、汁かけ飯・骨付きさんま寿司・赤和え(アカイとも呼ばれます。生魚の切り身を唐辛子であえたもの)・御酒の膳をいただきます。伊弉冉尊(イザナミノミコト)が御子神の丈夫な成長を願って骨付きさんま寿司を食べさせたという話が伝わっていたことから、さんま寿司発祥の地とされています。
場 所:
花の窟神社(有馬町)
内 容:
日本書紀にも記されている日本最古の神社『花の窟』は、日本の神々の母・イザナミノミコトの御陵であり、熊野三山の根源地として我が国古代信仰にとって非常に重要な神域です。百尋(166m程度)の大綱を高さ約45mの御神体の窟頂上から『七里御浜』へ引き出して境内へ渡す「お綱かけ神事」(三重県指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣を祈願するとともに、神と結びつながり、神の恵みをいただく太古から受け継がれる神事です。秋季大祭の際には、神聖な白石を載せた花車を引く「お白洲引き」や道中踊りなどが行われます。
☆お綱かけ神事①~三流(みながれ)の幡(はた)~
大綱に吊るされた御神体正面の3つの縄旗は、その昔に朝廷から奉献されていた錦の旗の名残で、伊弉冉尊(イザナミノミコト)が産んだ3貴神《天照大神 (アマテラスオオミカミ)、月読尊(ツキヨミノミコト)、素戔鳴尊(スサノオノミコト)》を象徴しています。「紀伊続風土記」にも”ある時に熊野川の氾濫 によって錦の旗が届かなかったため、土地の人びとが縄旗を作って、旗の下に様々な季節の花を結び付けて行う”との記述があります。
☆お綱かけ神事②~御子神が宿る大綱~
大祭に用いられる大綱は、古代米の稲藁で作られた7本の綱を1尋ごと(約1,6m)に結束したもので す。7本の綱もそれぞれ伊弉冉尊(イザナミノミコト)が産んだ自然神7柱を現しています。この日本一長いとも言われる大綱は、神々が宿るものであるため、 またぐことは禁忌とされています。ちなみにお綱かけ神事は”かけ替え”ではなく、前回かけたお綱が残っている場合はそのままにして新たにお綱をかけます。 したがって、お綱が2本ある光景が見られる場合もあります。前大祭のお綱が残っていることは豊作を約束するものとして喜ばれると言われます。
1.風の神…級長戸辺命(シナトベノミコト)
2.海の神…少童命(ワタツミノミコト)
3.木の神…句句廼馳(ククノチ)
4.草の神…草野姫(カヤノヒメ)
5.火の神…軻遇突智命(カグツチノミコト)
6.土の神…埴山姫(ハニヤマヒメ)
7.水の神…罔象女(ミツハノメ)
花の窟神社ホームページはこちら
時 間:
9:00~ 祈祷開始(随時祈祷)
場 所:
楊枝薬師堂(紀和町楊枝)
内 容:
永暦(1,160年)の頃、後白河法皇が頭痛を治されたという伝承から、”頭痛
山平癒寺”と号されるようになりました。頭痛をはじめとして目・耳・喉・首な
ど頭部の病にご利益があると言われています。毎年、3月に行われる祭り
では、ご利益を求める人びとで賑わいます。
☆三十三間堂の棟木
後白河法皇が重い頭痛を病まれた折、熊野の柳の木を棟木としてお堂を建立したところ無事平癒されたとの伝承が残っています。蓮華王院も楊枝薬師堂と同じく、”頭痛山平癒寺”の別名があります。
☆柳のお柳(りゅう)
楊枝の里に、平太郎という男が、妻のお柳と子の緑丸と三人で平和な生活を営んでいました。しかしこのお柳こそ、三十三間堂の棟木として切られようとしている柳の大木の精でした。お柳は自分の命がいくばくもないことを知り、平太郎の寝ている枕元で「昔、狩りにきた武士の放った鷹が、柳の高い枝に足尾が引っかかって動けず、あまりにも高いので武士は柳を切り倒してしまうよう部下に命じました。
そんなとき、あなたは武士の弓を借り、矢で鷹の引っかかっている枝を射落として、柳を切らずにすみました。その柳の精が私で、あなたになんとか恩返しがしたくて、化身してあなたの妻となり緑丸を生んだのです。このたび、法皇様の病を治すために切られました。私は生きていけません。どうかこれからは緑丸と2人でお過ごしください。」と打ち明けました。
平太郎が夢からさめてみると、お柳の姿は消えていました。切り倒された柳は志古の貝吹岩のところまで届くような大木で、人びとはその大木に綱をつけて動かそうとしましたが、微動だにしませんでした。それを見ていた平太郎は、子の緑丸に綱を持たせて柳に向かい「わが妻、緑丸の母・お柳よ。精があるなら動いてくれ。そして法皇様のための寺の棟木となっておくれ。」と呼びかけたところ、大木はなんの苦もなく動き出し、京へ運ばれて三十三間堂の棟木となりました。里の人びとは柳の枝で薬師仏を彫って、切り株の上にお堂を建ててお柳を祀ったとのことです。
時 間:
初日10:00頃 鯉のぼり掲揚げ 漁船による海上パレード
場 所:
七里御浜(木本町・井戸町)
内 容:
未来を担う子どもたちの成長を願い、熊野を訪れた人びとへのPRを目的として、七里御浜に約200匹の鯉のぼりが翻ります。
『獅子巖』から熊野灘(太平洋)の大海原をバックに、約1キロにわたって空に舞い上がる鯉のぼりが爽快感を与えてくれます。
時 間:
10:00~ 開会式(郷土芸能ショー、パフォーマンス大会など)
13:50~ 閉会式
14:00~ 終了
場 所:
井内浦農村公園(磯崎町・大崎半島)
内 容:
地域の豊かな自然の中で「参加」と「競争」を取り入れた、ステージを中心としたイベントです。地域住民の連帯意識を高め、交流の場を提供することで地域活性化の起爆剤になればとの思いで開催されており、”ふるさとに元気を取り戻そう”と毎年いろいろと企画される各種ステージイベントや多くの屋台コーナーを楽しむ人びとで賑わいます。
☆海のまち・磯崎町
磯崎町はもともと『古泊(小泊とも)』という名前でした。古くから熊野灘の荒波を北上して最初に見つかる良港なので、廻船が出入りしていました。この地方の中でも早くから漁業が盛んで、古くから活気がある集落であったようです。
☆夕日のビューポイント
磯崎町は正面に『鬼ヶ城』と『七里御浜』という世界遺産・名勝を望み、熊野灘沿岸には珍しく夕日が美しく見える場所に位置しています。遠くに熊野三千六百峰を望み、七里御浜のなだらかな海岸線が夕日によって朱に染まっていく様子は、今日一日の感謝と明日への希望を沸き立たせてくれる情景です。
時 間:
9:30~ オープニング(鮮魚のせり、ボートレース、海上綱渡り大会など各種催し物)
15:30頃 閉会
場 所:
二木島漁港周辺(二木島)
内 容:
青少年の健全育成と地域の活性化、地域文化の保存を目的として平成14年から開催されています。この地域は古くは”荒坂津”と呼ばれ、日本書紀来の神武天皇紀にも記された 由緒ある土地です。”ほうばい”とはこの地域の言葉で”仲の良い友達”という意味です。
町全体でも楽しんでもらい、町外の各地域との交流を深めて融和・団結を図るために、地元特産品の販売や各地区によるフリーマーケット、鮮魚釣り堀、海上綱渡り大会など、漁村ならではの催し物が行われます。
☆日本書紀に記された村・荒坂津
日本書紀の中の神武天皇紀によれば、神武天皇は東征の折、熊野灘で暴風雨に遭って二人の皇兄を失った後、熊野の『荒坂津』へ上陸し、辺りを支配していた丹敷戸畔(にしきのとべ)という者を討伐して大和を目指したとの記述があります。支配者の丹敷戸畔(にしきのとべ)という名前が二木島に似ており、二木島の昔の村名が荒坂であったことから、東征軍は近くの『楯ヶ崎』付近に上陸したのではないかと言われています。
☆風待港
その昔、帆船は風頼みであり、風のない日は良港に停泊して風を待つのが通例でし た。この地方では、水深が深くて飲み水も豊かな二木島が唯一の風待港であったため、風のないときには多くの停泊船で賑わいました。熊野灘沿岸の中でも漁港 商港として特に栄えた港であり、廻船の入港によって物資の交流が行われ、周辺とは異なった文化を育んでいたと言われています。江戸時代に廻船の船乗りたち の評判をもとに作られた「全国湊くらべ」の番付にも二木島の名前が記されており、全国でも有名な良港として知られていました。
場所:JR熊野市駅前を中心に記念通りまで
日時:5月第4日曜日(例年予定ですが、変更になることもあります)
時間:午前10時~午後4時頃
熊野市駅前の特設ステージを中心に多くの地元の各団体の販売テントや記念通りのかけては「いこらい市」が併催され
熊野市一体となって盛り上がる一大イベントです。
特設ステージでは歌や踊り、演奏などお多彩な催しが行われています。ギネス認定された300人で目を見開いて「めはり寿司」
たべる催しや、最後には熊野らしい「もちまき」で締めます。
●令和2年丸山千枚田虫送り行事は中止です。
時 間:
19:00頃から30分程度
場 所:
丸山千枚田(紀和町丸山)
内 容:
いわゆる熊野古道が「紀伊山地の霊場と参詣道」として世界遺産に登録された記念イベントとして復活した農耕行事です。地元のこどもたちの”虫おくり殿のおん通りよい~”の 掛け声とともに『丸山千枚田』の豊作を祈ります。
☆虫おくり
『虫おくり』は現在の稲作では害虫駆除にあたるもので、昭和28年まで実際に丸山地区で行われていた行事です。その昔は薬品などもなく害虫になすすべがなかったことから、地域の子どもたちが集まってお寺から菓子をもらい、松明と太鼓、鐘などを手に丸山千枚田の中を練り歩いて火と音で害虫を追い払っていました。そこには素朴な農民の祈りが込められています。
熊野市観光公社では、毎年『丸山千枚田虫送りツアー』を実施しており、会場まで直接乗り入れし、便利にイベントを楽しめます。
令和2年紀和の火祭りは中止です。
時 間:
18:00~ 夜店開店
18:30~ 子ども柱まつり(歌謡ショー、催し物など)
20:05~ かがり火点火
20:10~ 北山砲
20:30~ 瀞流太鼓
21:00~ 柱まつり
21:30~ 打ち上げ花火・ナイアガラ点火
22:00頃 終了
場 所:
小川口河川敷(紀和町小川口)
内 容:
『北山砲』の再現発射や、山々に響き渡る2000発以上の花火の打ち上げなど、様々な内容が組み込まれたイベントです。祭りのメインとなる『柱まつり』はあらゆる災害を松明とともに夜空に放つことで、筏流しの筏師たちの安全祈願や、五穀豊穣と川漁・堰漁の大漁成就、無病息災などを願って、遠い昔から熊野川水系で行われてきたと言われています。
☆柱まつり
紐でくくった松明に火を灯し、燃え尽きないように回転させながら、高さ20m程度(その年ごとに変わる)に吊られた竹籠めがけて投げ入れる勇壮な行事で す。松明はなかなか竹籠に入るものではありませんが、他の松明が飛んでくるため、落ちた自分の明かりを拾いにいくのも非常に勇気が必要な行動です。闇にゆ らめく松明の明かりと太鼓の響きが幻想的な雰囲気に誘います。
☆北山砲
今から百三十年前の幕末、長州藩士たちが紀和町近隣の十津川郷土たちを巻き込み、天誅組と称して大和郡山で幕府への反乱を起こしました(天誅組の乱)。 紀和町小川口の村では戦い破れて南下してくる天誅組に備えて、北山川の河原に多く生えていた松の木をくりぬき、竹を巻いて大砲を造りました。しかし天誅組 がこの地域に侵入することはなく、この松の木の大砲は発射されることなく、河原で朽ち果てたそうです。
お問い合わせ:紀和総合支所地域振興課
TEL 05979-7-1113
時 間:
19:00頃~ 1時間程度(花火終了後、盆踊りなどが行われる。)
場 所:
遊木漁港(遊木町)
内 容:
遊木町内で行われる追善花火大会。遊木町はサンマ漁船の基地で、近年ではブルーツーリズムの基地となっています。
普段は漁師で活気づく海村が花火に照らされます。
☆サンマ漁業の基地・遊木町
遊木町は、熊野灘沿岸の中でもサンマ漁が盛んな場所です。三陸沖から熊野灘へ南下してきたこの地方のサンマは適度に脂分が抜けており、『サンマの丸干し』や『サンマ寿司』など保存のきく食べ物に適しています。11月から1月にかけて、『棒受け網漁(ぼけ)』によるサンマ漁が最盛期を迎え、家々の軒先には銀色にきらめくサンマがすだれ干しにされます。
☆海村の習俗
熊野の海岸部では、米寿の祝いのお返しに名前入りの”手形”を親族に配る風習があります。これは、長寿の福徳を授けてもらおうとするもので、家々の玄関に貼られたその姿を見ることができます。
時 間:
8月15日 19:30頃~ 火とぼし
8月16日 20:00~ ジャジャツク
場 所:
寶鏡山光福寺(飛鳥町神山)
内 容:
初精霊を送り迎えする灯火を掲げ、『ジャジャツク』と呼ばれる楽器を用いて盆踊りの始まりを告げてから、初精霊供養を行う伝統行事で無形民俗文化財(市指定)に指定されています。
☆ジャジャツク
『ジャジャツク』は釣鐘と大太鼓を並べた楽器です。打ち手が右にシャマタと呼ばれる二股の打棒を持ってジャジャツクを鳴らすと、鐘と太鼓は同時に鳴り出して伴奏のように音を刻みます。
左手にはシュモクと呼ばれる内棒で、時折、鐘や太鼓を鳴らしリズムをひきしめて、独特の雰囲気をかもし出します。江戸時代末期に、熊野地方の曹洞宗の各寺で盛んに行われていたと言われていますが、現在では光福寺のみで行われています。
☆火とぼし
初精霊の家から墓地まで青竹108本に蝋燭をたてます。これは、初精霊を自家に送り迎えする道しるべであり、108の煩悩を焼き払う灯火の意味があります。
☆貴人流離伝説
南北朝時代の戦乱収まらぬ頃、南朝方に尊秀王(たかひでおう)【自天王】・忠義王(ただよしおう)・尊雅王(たかまさおう)【南天王】という3人の兄弟がいました。3人は後亀山天皇の孫・尊義王(たかよしおう)の皇子でした。1443年に南朝方は御所へ乱入して三種の神器のひとつ・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を奪い返しました(禁闕の変)。
皇子たちは北朝(室町幕府)との戦いの中、神器を携えて大和・吉野へ逃れて、一時、紀和町の大河内に行宮(仮の御所)を定めていたと伝わっています。しかし赤松党の攻撃により、尊秀王は奈良県吉野郡神北山村で、忠義王には奈良県吉野郡上川村で命を落とされました。
ひとり残った尊雅王もも赤松党の追撃により、飛鳥町の光福寺に逃れたものの傷が重く、ついにこの地で薨去されたと伝わっています。熊野は南北朝時代の終焉の地でもありました。
また、光福寺では源平合戦の折に逃れてきた平維盛(平清盛の嫡孫)が開基として信奉されているそうです。
場 所:
七里御浜(木本町・井戸町・有馬町))
内 容:
熊野大花火大会は、諸精霊供養の花火を起源とし、約1万発を打ち上げる紀州最大の花火大会です。『鬼ヶ城』や海上での自爆花火など、豊かな自然を活かした大迫力の名物花火が、夜空のみならず熊野灘を舞台として繰り広げられます。鬼ヶ城の大岩壁に響き渡る轟音と、海花火ならではの”足”の長さなど、他に類見ない花火として、例年全国各地から十数万人の大観衆で賑わっています。
☆灯籠焼き
熊野大花火の起源は、お盆の初精霊供養に簡単な花火を打ち上げて、その花火の火の粉で灯籠焼きを行ったの が始まりだと言われています。時代とともに花火の規模が拡大してしても、本来の目的である初精霊供養の要素は消えることなく、現在でも灯籠焼きや追善供養 の打ち上げ花火などがプログラムに組み込まれています。
☆追善花火
この地方では追善花火・灯籠焼きの風習が盛んです。熊野大花火は木本町の灯籠焼きがその起源ですが、他の地域でも行われています。磯崎町・井戸町・有馬町(有馬・奥有馬・南有馬・山崎・志原尻)でも8月16日夜に灯籠焼きの後、追善花火の放場を行っています。
☆三尺玉海上自爆
三尺玉の花火は、直径90cm・重量250kgの大きさを誇ります。その花火玉を約4m四方の鉄骨製のイカダの上に設置し、沖合400m地点に停泊さ せて点火、爆発させます。三尺玉は爆発すると半径300m(直径600m)の大きな華を咲かせますが、その爆発の破壊力は凄まじく、鉄骨製のイカダが大き く曲がってしまうほどの威力を持っています。
☆鬼ヶ城大仕掛
例年、第1弾は2部構成とし、郷土の四季や風物を表現した創作花火を打ち上げています。第2弾は「巖頭のとどろき」と題して、5号玉以上の大玉を打ち 上げるとともに数多くの”自爆”を行う大迫力の花火がフィナーレを飾ります。鬼の牙城から咆哮するその轟音は体感震度7を記録するともいわれています。
8月16日に行われる各地域の追善花火
地 域 |
実施場所 |
磯崎町
井戸町
有馬町(有馬)
〃 (南有馬)
〃 (奥有馬)
〃 (山崎)
〃 (志原尻) |
磯崎港
七里御浜(獅子巖付近)
七里御浜
七里御浜(有馬保育園付近)
近大高専
山崎運動公園
七里御浜(志原川河口付近) |
※ 南有馬と志原尻は初精霊家庭がある場合のみ開催
場 所:
花の窟神社(有馬町)
内 容:
日本書紀にも記されている日本最古の神社『花の窟』は、日本の神々の母・イザナミノミコトの御陵であり、熊野三山の根源地として我が国古代信仰にとって非常に重要な神域です。百尋(166m程度)の大綱を高さ約45mの御神体の窟頂上から『七里御浜』へ引き出して境内へ渡す「お綱かけ神事」(三重県指定無形民俗文化財)は、五穀豊穣を祈願するとともに、神と結びつながり、神の恵みをいただく太古から受け継がれる神事です。秋季大祭の際には、神聖な白石を載せた花車を引く「お白洲引き」や道中踊りなどが行われます(但し,お白洲引きは大祭後の別に日の実施されます)。
☆お綱かけ神事①~三流(みながれ)の幡(はた)~
大綱に吊るされた御神体正面の3つの縄旗は、その昔に朝廷から奉献されていた錦の旗の名残で、伊弉冉尊(イザナミノミコト)が産んだ3貴神《天照大神 (アマテラスオオミカミ)、月読尊(ツキヨミノミコト)、素戔鳴尊(スサノオノミコト)》を象徴しています。「紀伊続風土記」にも”ある時に熊野川の氾濫 によって錦の旗が届かなかったため、土地の人びとが縄旗を作って、旗の下に様々な季節の花を結び付けて行う”との記述があります。
☆お綱かけ神事②~御子神が宿る大綱~
大祭に用いられる大綱は、古代米の稲藁で作られた7本の綱を1尋ごと(約1,6m)に結束したもので す。7本の綱もそれぞれ伊弉冉尊(イザナミノミコト)が産んだ自然神7柱を現しています。この日本一長いとも言われる大綱は、神々が宿るものであるため、 またぐことは禁忌とされています。ちなみにお綱かけ神事は”かけ替え”ではなく、前回かけたお綱が残っている場合はそのままにして新たにお綱をかけます。 したがって、お綱が2本ある光景が見られる場合もあります。前大祭のお綱が残っていることは豊作を約束するものとして喜ばれると言われます。
1.風の神…級長戸辺命(シナトベノミコト)
2.海の神…少童命(ワタツミノミコト)
3.木の神…句句廼馳(ククノチ)
4.草の神…草野姫(カヤノヒメ)
5.火の神…軻遇突智命(カグツチノミコト)
6.土の神…埴山姫(ハニヤマヒメ)
7.水の神…罔象女(ミツハノメ)
ホームページ:
http://www.hananoiwaya.jp/
時 間:
宵宮祭(例大祭前日)
18:30 「稲荷山車(ダンジリ)出発
19:00 「よいや」、稲荷山車に合流して木本神社へ
19:15 「子どもみこし」、稲荷山車に合流して木本神社へ
19:30 「六法(方)行列」、稲荷山車に合流して木本神社へ
19:40 「元宮太鼓」、稲荷神社に合流して木本神社へ
例大祭
8:00 「稲荷山車」が御神輿を迎えに木本神社へ出発
各地区の山車が随時木本神社に集合
10:00 神事(祝詞奏上、浦安の舞、玉串奉典、御神輿への神移し)
11:45 「稲荷山車」が“御旅所(稲荷神社)”へ出発
12:00 「御神輿」出発
12:15 「六法(方)行列」出発
12:30 「よいや」出発
12:45 「子どもみこし」出発
13:00 「元宮太鼓」出発
16:45頃「御神輿」が“御旅所”から出発“浜担ぎ”
24:00頃「御神輿」が木本神社に到着
場 所:
木本町各地内
内 容:
木本町は、江戸時代に紀州徳川家の本藩公領地として『奥熊野代官所』が置かれ、熊野地方(熊野川以東から三重県北牟婁郡紀北町)の中心地として栄えた町です。木本神社は、もともと「若一王子権現」(“若一王子”は天照大神を意味します)といい、新田地区にあったものを現在地に遷座したと言われています。
慶長13年(1608年)の遷宮棟札が現存しており、その頃から祭礼が行われています。例大祭では、木本町の各地区から様々な山車が出されて“暴れ神輿”の異名をもつ御神体が鎮座する神輿のお供をしながら町内を練り歩きます。
☆暴れ神輿
御神体を移した神輿は約1トンもの総重量があります。基本的には台車に載せられて町内を練り歩きます が、「浜担ぎ」や町内に設けられた各”宿所”では百数十人もの奉仕委員によって直接担がれます。「浜担ぎ」とは、神輿が御旅所(おたびしょ)《稲荷神社》 の到着した後、台車から外されて百数十人もの奉仕委員に担がれ、七里御浜で 熊野灘の荒波に神輿を浸け、浜に落として清めを行うものです。神輿渡御(みこしとぎょ)の道中、町内に設けられた各”宿所”で供え物として住民から振舞わ れる酒が、次々と神輿に振り掛けられ、伊勢音頭が高らかに歌われる中で勇壮に担がれる様子から”暴れ神輿”の異名があります。神輿を担ぐ時の”チョーサ ヤ、チョーチョ”という掛け声は、中国語の”招財”を起源とする”ワッショイ”の古い形の言葉といわれているものです。
☆六法(方)行列
元和5年(1619年)に徳川家康の第10子・頼宣が御三家の一つとして55万5千石を領して紀州に入 国しました。六法(方)行列は、紀州藩の本藩直轄地となった木本の住人がその喜びの心を表したもので、参勤交代・大名行列を模倣したものと言われていま す。”六法(方)”の名前は、天地東西南北の6方向に大きく手を振って足を強く踏みしめるような所作から、歌舞伎の六法(方)に由来していると言われてい ます。笛吹き・歌い手数名に次いで、”挟み箱”・”熊毛”・”鳥毛”・”手槍”・”立ち台”・”弓”・”鉄砲”・”など、総勢30名程度の若い衆が行列を 進んでいきます。若い衆たちは顔に白・赤・青の化粧をして、歌い手に合いの手の掛け声を入れて華やかに”六法を振る”姿は例大祭の花形です。市の無形民俗 文化財に指定されています。
掛け声:
フリコーメソー ヨーイヨイ ソーレ ソーレ
ヨイヨイ セッ ヨイヤハッ ヨイヤハッ ヨイヤハッ
☆各地区の山車等
「御神輿」…”暴れ神輿”の異名があり、この神輿が百数十人の奉仕委員によって町内を廻る”神輿渡御(みこしとぎょ)”が例大祭の中心です。
「稲荷山車」(新出町)…子どもが引ける程の比較的小型の山車で、”ダンジリ”と呼ばれます。例大祭当日には御神輿を迎えに行った後、御神輿や各町の山車が渡御(とぎょ)する前に神社で獅子舞を行います。
「よいや」(栄町)…黒・白・赤の3枚重ねの布団を屋根に積む太鼓です。”よいや”の名前は山車を高々と担ぐ時に発する掛け声に由来するものと言われています。
「子どもみこし」(井筒町)……子どもが担ぐ神輿です。
「六法(方)行列」(親地町)…隈取りをした子どもたちが手槍や道具箱を手にして掛け声勇ましく行進する奴(やっこ)振りです。
「元宮太鼓」(新田地区)……太鼓を載せた山車で、多くの子どもたちを乗せて進んでいきます。
高い透明度、美しいリアス式海岸、楯ヶ崎・海金剛をはじめとした雄大で自然豊かな景勝地が広がるの熊野灘を舞台に開催されるシーカヤックとSUPの大会です。
会場となる熊野市の新鹿海岸は、快水浴場100選に選ばれています。
ホームページ:
https://beachmarine-fest.com/
時 間:
9:00 開会
9:30 各種イベントオープン(郷土芸能ショーなど各種ステージ・イベント)
14:30 大抽選会
15:00 もちまき
場 所:
紀和町B&G海洋センター周辺(紀和町板屋)
内 容:
会場となる紀和町板屋周辺は、昭和初期から銅鉱山で栄えた地域です。鉱山華やかな頃、毎年11月3日に「山神祭」として鉱山関係者をまじえ、地域を挙げてお祭りが行われていました。昭和53年の鉱山閉山後は、「花木まつり」・「産業祭」と形・名前こそ変わりましたが、地域に愛され、地域の文化の向上や地域振興へつなげていきたいという想いは、現在の「ふるさとまつり」に受け継がれています。
☆紀州鉱山
紀和町・楊枝川周辺では、奈良県時代に東大寺の大仏鋳造のための銅が供出され、南北朝時代には南朝方の軍資金を生み出していたと言われており、古くから金・銀・銅の豊かな鉱脈が存在していました。江戸時代には”一山は一国たるべし”として厳しい掟が敷かれた一種の治外法権地帯を形成していました。江戸中期頃には”熊野床”と言われる画期的な銅鉱石の精錬技術が考案され、全国の鉱山へ広がっていきました。その後、昭和に入ってから石原産業株式会社が地下資源の開発に着手し、”紀州鉱山”と言われるようになり、昭和38年には全国でも屈指の鉱山となりました。しかし昭和40年代後半からは国際銅価の低迷と採掘原価の増大によって昭和53年に閉山を余儀なくされましたが、現在でも選鉱場跡や坑道が残り、近大産業文化遺産としての価値をとどめています。
時 間:
10:00 神事
12:00 どぶろくのふるまい 余興
14:30 もちほり
場 所:
大森神社(育生町尾川)
内 容:
大森神社では、毎年行われる例大祭に醸造した“どぶろく”を用います。神事に用いられた“どぶろく”は、参拝者へふるまわれて、杉木立ちと清流に囲まれた境内はほろ酔い気分に包まれます。
☆どぶろく
米の豊作を神に感謝し、来年の五穀豊穣を祈って行われる祭礼用のどぶろくは、例祭の1ヶ月 前から仕込みが始まります。仕込み以後は、1日3回温度を調べて例祭まで大切に保存されます。祭礼用のお神酒としてどぶろくの醸造を認められているのは伊勢神宮や飛騨・白川郷など東海地方ではあまり例がありません。
☆大森神社
育生町の尾川・長井・粉所地区の氏神で、鎌倉時代初期の建保元年(1213年)、地元の南 太夫が奈良・春日神社に詣でた際に神鏡を持ち帰って祀ったのが始まりと伝えられています。祭神は天児屋命(アメノコヤネノミコト)。神明造りの神社が多い この地域の中では珍しく、本殿は古式を残す1間社の「春日造り」です。
月 日:10月下旬~12月上旬
場 所:熊野市内海岸部
公式HP:https://kumano-fishing.wixsite.com/mysite
内 容:
市内海岸部には多くの磯場があり、磯釣りのメッカとして広く知られています。大会参加渡船を利用して、「グレの部」「イシダイの部」などの各部門を競う、広大な“熊野の磯”をフィールドとする釣り大会です。
☆熊野の磯・「紀東」
熊野市内の磯は、いわゆる「紀東」と呼ばれる地域に属しており、甫母・二木島・新鹿・遊木・熊野の各地区それぞれに50cmオーバーのグレやイシダイ が釣れる好漁場があり、年間を通して多数の釣り客で賑わいを見せます。紀東一の広い地磯と言われる「甫母の千畳敷(『楯ヶ崎』遊歩道・千畳敷)」や、魚影 が非常に濃い超人気磯である「熊野の鈴置島」など、多くの地磯・独立磯は釣り人を魅了してやみません。