時 間:
8月15日 19:30頃~ 火とぼし
8月16日 20:00~ ジャジャツク
場 所:
寶鏡山光福寺(飛鳥町神山)
内 容:
初精霊を送り迎えする灯火を掲げ、『ジャジャツク』と呼ばれる楽器を用いて盆踊りの始まりを告げてから、初精霊供養を行う伝統行事で無形民俗文化財(市指定)に指定されています。
☆ジャジャツク
『ジャジャツク』は釣鐘と大太鼓を並べた楽器です。打ち手が右にシャマタと呼ばれる二股の打棒を持ってジャジャツクを鳴らすと、鐘と太鼓は同時に鳴り出して伴奏のように音を刻みます。
左手にはシュモクと呼ばれる内棒で、時折、鐘や太鼓を鳴らしリズムをひきしめて、独特の雰囲気をかもし出します。江戸時代末期に、熊野地方の曹洞宗の各寺で盛んに行われていたと言われていますが、現在では光福寺のみで行われています。
☆火とぼし
初精霊の家から墓地まで青竹108本に蝋燭をたてます。これは、初精霊を自家に送り迎えする道しるべであり、108の煩悩を焼き払う灯火の意味があります。
☆貴人流離伝説
南北朝時代の戦乱収まらぬ頃、南朝方に尊秀王(たかひでおう)【自天王】・忠義王(ただよしおう)・尊雅王(たかまさおう)【南天王】という3人の兄弟がいました。3人は後亀山天皇の孫・尊義王(たかよしおう)の皇子でした。1443年に南朝方は御所へ乱入して三種の神器のひとつ・八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)を奪い返しました(禁闕の変)。
皇子たちは北朝(室町幕府)との戦いの中、神器を携えて大和・吉野へ逃れて、一時、紀和町の大河内に行宮(仮の御所)を定めていたと伝わっています。しかし赤松党の攻撃により、尊秀王は奈良県吉野郡神北山村で、忠義王には奈良県吉野郡上川村で命を落とされました。
ひとり残った尊雅王もも赤松党の追撃により、飛鳥町の光福寺に逃れたものの傷が重く、ついにこの地で薨去されたと伝わっています。熊野は南北朝時代の終焉の地でもありました。
また、光福寺では源平合戦の折に逃れてきた平維盛(平清盛の嫡孫)が開基として信奉されているそうです。